本願寺派について|岐阜県美濃加茂市の浄土真宗本願寺派のお寺

葬儀・法要・墓地・寺院見学などのお問い合わせはこちら

0574253717

受付時間 9:00~18:00

お問い合わせ

本願寺派について

浄土真宗本願寺派とは

浄土真宗本願寺派は浄土真宗の宗派の一つです。
京都市下京区にある仏教寺院、通称「西本願寺」を本山としています。
西本願寺の正式名称は「龍谷山 本願寺」といい、京都市民からは「お西さん」の愛称で親しまれています。
西本願寺の境内は国の史跡に指定されていて、「古都京都の文化財」として世界遺産にも登録されています。

教え

阿弥陀仏(あみだぶつ)のはたらきによって信心を恵まれ、念仏する人生を歩みます。この世の縁が尽きる時、浄土に生まれて仏となり、迷いの世に還って人々を教え導きます。

浄土真宗の教章(私の歩む道)

浄土真宗の教章とは、一言で言うと「教え」の事です。
教章を見れば、一目で浄土真宗が分かる、といってもいいでしょう。
教章の「教」とは教法、つまり浄土真宗の“み教え”の事、「章」とは「文章」という熟語があるように「明らかにする」という意味があります。

宗名 浄土真宗
宗祖 親鸞聖人
1173年5月21日(承安3年4月1日)ご誕生~1263年1月16日(弘長2年11月28日)ご往生
宗派 浄土真宗本願寺派
本山 龍谷山 本願寺
本尊 阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)
聖典 ・釈迦如来が説かれた『浄土三部経』『仏説無量寿経』『仏説観無量経』『仏説阿弥陀経』
・宗祖 親鸞聖人が著述された主な聖教『正信念仏偈(教行信証 行巻末の偈文)』『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』
・中興の祖 蓮如上人のお手紙『御文章』
教義 阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐまれ、念仏を申す人生を歩み、この世の縁が尽きるとき浄土に生まれて仏となり、迷いの世に還って人々を教化する。
生活 親鸞聖人の教えにみちびかれて、阿弥陀如来のみ心を聞き、念仏を称えつつ、つねにわが身をふりかえり、慚愧と歓喜のうちに、現世祈祷などにたよることなく、御恩報謝の生活を送る。
宗門 この宗門は、親鸞聖人の教えを仰ぎ、念仏を申す人々の集う同朋教団であり、人々に阿弥陀如来の智慧と慈悲を伝える教団である。
それによって、自他ともに心豊かに生きることのできる社会の実現に貢献する。

教章のそれぞれの意味

宗名

宗名は浄土真宗です。
この浄土真宗という宗名は教えの内容を示す名称です。

宗祖

宗祖とは宗派の開祖のことで、宗教を興した人のことを言います。
浄土真宗は親鸞聖人(しんらんしょうにん)が宗祖となります。

本尊

本尊とは、寺院の本堂に安置され、信仰の対象として最も尊重されている中心的な仏像のことです。
浄土真宗本願寺派は、阿弥陀如来(あみだにょらい)(南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ))が本尊となります。
他宗教では木像が最も詳細なお姿で、 絵にかいた仏像、仏画、称号などは簡略化されたものと思われがちですが、当流派ではどちらも同等のお姿としています。

聖典

聖典とは、ある宗教での教え・きまりを説いた書物のことです。
浄土真宗本願寺派では『浄土三部経(じょうどさんぶきょう)』『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)』『仏説観無量寿経(ぶっせつかんむりょうじゅきょう)』『仏説阿弥陀経(ぶっせつあみだきょう)』『正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)』『浄土和讃(じょうどわさん)』『高僧和讃(こうそうわさん)』『正像末和讃(しょうぞうまつわさん)』『御文章(ごぶんしょう)』の9つが聖典となります。

教義

教義とは、宗教の教えを体系化したもののことです。
「阿弥陀如来(あみだにょらい)の本願力(ほんがんりき) によって信心(しんじん)をめぐまれ、念仏(ねんぶつ)を申(もう)す人生(じんせい)を歩(あゆ)み、この世(よ)の縁(えん)が尽(つ)きるとき浄土(じょうど)に生(う)まれて仏(ぶつ)となり、迷(まよ)いの世(よ)に還(かえ)って人々(ひとびと)を教化(きょうけ)する。」というのが教義です。

生活

ここでいう生活とは、日々の暮らしの事ではなく、信仰生活の事です。
具体的には阿弥陀如来のみ心”を聞く「聴聞(ちょうもん)」、また念仏を唱えることが信仰生活であると説いています。

「浄土真宗の教章(私の歩む道)」を理解するためにを参考にしました。
詳しくは下記PDFをご覧ください。

参考:浄土真宗の教章(私の歩む道)

浄土真宗本願寺派の歴史

本願寺(ほんがんじ)は、浄土真宗本願寺派の本山で、その所在(京都市下京区堀川通花屋町下ル)する位置から、西本願寺とも言われています。
浄土真宗は、鎌倉時代の中頃に親鸞聖人によって開かれましたが、その後、室町時代に出られた蓮如上人(れんにょしょうにん)によって民衆の間に広く深く浸透して発展し、現在では、わが国における仏教諸宗の中でも代表的な教団の一つとなっています。

龍谷山 本願寺について

京都市下京区にある浄土真宗本願寺派の本山「本願寺(通称、西本願寺)」ですが、もともと、親鸞聖人の廟堂(びょうどう)から発展したものです。
親鸞聖人が弘長2年(1263年)に90歳で往生されると、京都東山鳥辺野の北の地「大谷」に石塔が建てられ、遺骨が納められました。
その後、比叡山延暦寺から迫害を受けるなど場所は転々とするも、天正19年(1591年)に秀吉の京都市街経営計画に基づいて本願寺は大坂天満から再び京都に帰ることとなり、現在地に移転しました。
大谷廟堂は江戸時代初頭、東山五条坂西大谷に移り、現在の「大谷本廟(おおたにほんびょう)」となっています。

より詳しく知りたい方は下記サイトをご覧ください。

参考:本願寺の歴史|浄土真宗本願寺派 本願寺(西本願寺)

本願寺派の葬儀作法、注意点

浄土真宗本願寺派の葬儀に参列される方のために、ここでは浄土真宗本願寺派の葬儀マナー、また他宗教との違い、注意点などをご説明します。

基本的な考え

人が死ぬと死者は霊として残り、三途の川を渡って閻魔大王に生前の罪を裁かれる、などがあると思います。
しかし、浄土真宗本願寺派に死者は霊として残るという考え方はありません。
なぜでしょうか。

浄土真宗本願寺派では、阿弥陀如来を信仰しています。
人が死ぬと、阿弥陀如来のはたらきによってお浄土へ生まれます。
お浄土はお念仏によって「誰もが生まれていくことのできる世界」であり、お浄土へ生まれたものはみな仏になります。
仏とは、あらゆる命を救おうとする存在。
ですので、死別は悲しく辛いものではなく、仏となった大切な方との繋がり、「ご縁」でつながっていると感じることができるものであり、また仏となったものと阿弥陀如来との新たなご縁を結んでいくための場所ともいえるのです。

大切な方との死別を経験すると、私たちは悲嘆にくれます。
この苦しみを釈尊(お釈迦さま)は「愛別離苦(あいべつりく)」と説かれました。
その悲嘆は、つながりが切れることに由来しています。
しかし、本当のつながり、つまり仏教でいう「ご縁」とは、私たちが簡単に断ち切れるようなものではなく、仏さまによって永遠のつながりとして与えられているものなのです。

葬儀マナー

1焼香卓(しょうこうじょく)の2,3歩手前で立ち止まって一礼、左足から卓の前へ進みます。

2右手で香を一回だけつまみ、おしいただかずにそのまま香炉に入れます。

3合掌し、ご本尊を仰いで「なみあみだぶつ」または「なまんだぶ」とお念仏を何度か称えて(となえて)から礼拝します。

4右足から2,3歩後退し、立ち止まって一礼、席へ戻ります。

葬儀マナー

葬儀で注意する言葉

戒名(かいみょう)とは言わず法名(ほうみょう)と言う

法名は仏弟子として生きていくことを誓い、授かる名前の事。
一方、戒名は、仏門に入った証で戒律を守る印として与えられる名前の事。

「戒を守り抜くことはできない凡夫たる一切衆生は、阿弥陀如来(法蔵菩薩)の誓願によってのみ救われる」という教義に基づき、受戒を行わないため、法名と言います。

「天国に昇天する」とは言わず「お浄土に生まれる」と言う

「天国」は色んな意味で使われてますが、元々はキリスト教の教えです。
阿弥陀さまと神さまの性質が全く違うように、天国と浄土も違います。

それと同様で「冥土」という言葉もありません。
冥土とは、死後に行くとされている世界、霊魂が行くとされる世界のこと。
浄土真宗本願寺派は、この世での命が終わると阿弥陀如来によってお浄土へ生まれ変わるためです。

「御霊前」とは言わず「ご仏前」と言う

浄土真宗本願寺派には「霊」という考え方はありません。
そのため、「御霊前」とは言わず「ご仏前」と言います。

「永眠する」「昇天する」とは言わず「浄土に往生する」と言う

永眠するとは、永遠に眠るという事。
しかし、命が終わると永遠に眠る訳ではなく、浄土へ生まれ変わるため、言葉としては適切ではありません。
また、昇天するとは、その言葉の通り「天国へ昇る」の意。
天国ではなく浄土のため、昇天するも適切な言葉ではありません。

葬儀の後

清め塩はしない

清め塩は死を穢れ(けがれ)とする他の宗教のしきたりです。
死は穢れではなく、お浄土へ生まれ変わるものであるため、清め塩は行いません。

初七日法要、四十九日法要の意味合いが違う

初七日法要、四十九日法要は、この世とあの世をさまよっている死者の霊を成仏させるために行うもの、という考えが一般的と思います。
浄土真宗では、亡くなった人はすぐに浄土へ行き仏さまになります。
ですので、初七日法要、四十九日法要などの中陰法要は、成仏を祈る会ではなく、残された人たちが仏さまの教えに出会う機会と言えます。

pagetop